1. スーパー銭湯の確率
2年前の9月、入浴中にシャワーでお尻を流していたら、指先に何かがあたりました。ポコッとした小指の先のような感覚です。痛くも痒くもありません。
場所は、肛門の横。場所が場所だけに、ネットで検索してみても、痔に該当するような情報にしか巡り会えません。なので、痔の評判のいい町医者を受診しました。
すぐに、大学病院を紹介されて、それからは早かった!
検査、検査、検査・・・
生検の結果 診断名は【低分化 肛門管腺癌】
主治医の話『つまり、癌なんです』Drはさらりと言いました。
『非常に珍しいんですよ、スーパー銭湯なんです』
えっ?何の話?
『数パーセントなんです』
はぁ。
肛門にできるのは、非常に珍しく、私のように外の皮膚に飛び出すことも殆どなく、こちらの病院では手術の前例は過去にないとのことでした。
手術と人工肛門の説明 ナースからのパウチの説明
それはそれは、実感もなき、信じられない事態でした。
私は、障害者になるんだそうです。
専門外来の看護師さんに、『私の目標は、80歳でトライアスロンの世界大会に出ることなんです』
と言ったら、女性でトライアスロンやってる人に初めて会った。と、驚かれ。
『オリンピックに出ようと思って、陸上始めたんです。七種競技をやるんですが、槍は見たことも触ったこともないんです』と言ったら大ウケでした。
『全面的にバックアップしますよ』と、言ってくださいました。
目指すは、オリンピックからパラリンピックへと移行しました。コレが唯一の励みです!!
想像もしていなかったし、想像もできない未来でした。
お腹から腸が出る!?お尻から、うんちができない!?
肛門癌、人工肛門、ストーマ、思いつく限りの言葉で検索して、ある病院を訪ねました。
ドクターはジミニークリケットに似ています。
『珍しいことではありますが、全然ないわけじゃない』
手術はジミニークリケットにして頂きました。
オペ後、麻酔から目が覚めた瞬間、私にはこうなることがずっと前からわかっていた、そう思いました。
入院生活も竜宮城のようでした。
優しくて配慮の行き届いた看護師さんたちでした。
手術の2日後処置してくれたナースが私のベッドサイドから、真っ黒い液体を手に持って部屋から出て行きました。
私のお腹の上に、何かがちょこんと乗っています。
色のいいタラコ!!!これが、ストーマ!?
数日後に、シャワーの許可が出て、たらちゃんと初入浴です。
うんちなんだ。汚いんだ。
熱いシャワーを、思いっきり強くしてたらちゃんに浴びせました。出血しました。
たらちゃんはデリケートでした。文句はひと言も言いません。痛みもありません。
時々、動きます。
看護師さんと話していると、ブーブーと会話に参加します。人なつこいストーマです。予定通りに3週間の入院生活を終えて、竜宮城に別れを告げました。
退院前から、半年間の抗がん剤治療が始まりました。
2. 竜宮城とジミニークリケット
3. やる気の出ない薬と泥週間
私の場合、抗がん剤は3週間ごとに通院して点滴をしました。
私にとって一番辛かった副作用は、無気力でした。
もう手術は終わったんだから、もう退院したんだから、普通に生活しなきゃいけない。
あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ。
ところが、気という気、力という力が、全て“無”でした。
元気、やる気、体力、行動力、判断力、思考能力、忍耐力、握力、腕力・・・
知人にボヤキました。『やる気が出ないんですよね~』
『そりゃそうでしょ。薬を打って、やる気が出たら大変じゃない!』
あっ!そうか!やる気が出なくていいんだ。だいぶ、気が楽になりました。
それからは、3週間ごとの“やる気の出ない薬”の副作用が強く出る1週間は、仕事を休み、療養に専念しました。点滴後の8日目からは、雲泥の差、身体は雲のように軽くなりました。
時間はたくさんありました。ところが、身体をうごかすことが大義なので何もしない、何もできない。
朝から晩まで、一日中寝てしまう。寝られてしまう。
その頃、思いました。休日と休養の違い。
職場の人から見れば、仕事に来ていないのだから、休んでいることに違いはないでしょうが、休日は元気なときの休み、休養は元気を取り戻すための休み。
みんなはどうなんだろう?
【アスリート オストメイト】【ストーマ トライアスロン】【運動】【筋トレ】【マラソン】【登山】
思いつく限りの言葉で検索しましたが、オストメイトで運動をしている人がどんな工夫をしているのか、いつから身体を動かし始めたのか、何をやってよくて、何をしてはいけないのか、私の知りたい情報に巡り会うことはできませんでした。
そうこうするうち、半年間の抗がん剤治療は終わり、仕事も始められたので、検索することはいつの間にか諦めていました。
4. ウブントゥ*私を支えてくれたもの*
癌、入院、手術と予期せぬ出来事に遭遇した時、多くの方が力になってくれました。
通院のたびに夜明け前から車を走らせてくれた両親、家計の援助や栄養のある料理を差し入れてくれた姉たち。退院1ヶ月後、50歳の誕生日は甥の手作りケーキで祝いました。
4ヶ月後、妹が仕事でニューヨークに同行させてくれました。
旅行は不安でした。点滴で免疫力が下がっていること、パウチのこと、トイレのこと。飛行機は13時間でしたが、快適でした。飛行機の中のトイレには、便座に敷くペーパーが備え付けてあるのでそれを床に敷いて、膝を付けてパウチの処理をしました。
飛行機の出発が午後だったので、行きも帰りも、朝のうちにパウチを新しいものに取替えて、フィルターが目詰まりしていない状態でした。
現地でも、空港やフェリー乗り場、ホテルのロビーなどのトイレには、便座に敷くペーパーが備え付けられていたので、それを床に敷き、手持ちの便座除菌クリーナーで便器を除菌して事なきを得ました。
往復の飛行機の中で、妹から教えてもらった映画を観ました。素敵な映画でした。
タイトルは【最強のふたり】
パラグライダーの事故で身体が不自由になった大富豪と、彼を介護するスラム街出身の気のいい青年との出会いから、ワクワクする毎日が始まり、次第に深まるふたりの友情の実話に魅かれて、往復で5回も観てしまいました。
入院から半年後には、同僚たちに温かく迎えられ職場に戻ることができました。
オストメイトになったことで、素敵な方々との出会いがありました。
ウブントゥは、手術の前後からなぜだか急にアフリカが気になり始め、その時に知った言葉です。
意味は、人は人の間にあって人である。
5. お尻のボブ
退院から3カ月過ぎたあたりから徐々に仕事に復帰し始めました。
仕事は、小学校の給食の調理補助、保育園のパートなどです。
こう見えても、女子大生なので、在学中はフルタイムでの仕事ができなくて、短時間のパートをかけもちしています。
抗がん剤治療が終わるまでは、点滴のたびに1週間から10日位、休ませてもらっていたので、点滴さえ終われば、すっかり元気になるものと思っていました。
ところが、お尻から、腸がちょっと顔を出し、気になり始めました。
初めのうちは、ほんの少しでしたが、徐々にストーマのたらちゃんと同じ3cmくらい出ることもあり、名前はジャパニーズ ボブテイルのボブとしました。
たらちゃんとボブ、身体から二箇所も腸が出ていても普通に生きていられるなんてスゴイことに思えます。
ボブは身体が疲れると顔を出します。
病院に診察に行くと、片道2時間電車で座り、診察まで1時間座って待つので、ドクターに呼ばれる頃には、すっかり引っ込みます。
ストーマの手術から1年後、ボブを引っ込める手術をしました。
手術の少し前、自分に合うパウチを模索して、メーカーからサンプルを送ってもらっていました。
サンプルを模索していたとき、オストメイトで富士山に登頂した女の子のブログに、行き当たりました。
そちらで、紹介されていた、静岡のオストメイトの方とトレーナーの出会いの話にいたく感動しました。
私も、救ってもらえる!!
6. 最強のふたり現る
ストーマになる手術をしてから1年後、お尻のボブを引っ込める手術をしました。
さて、いよいよ、身体を動かせる時が、やってきました!
もう気になることは何もありません。この時を、待ちに待っていました!
平日は思いっきり働いて、休日になったら暴れまわるぞー!そう決めていました。
ところが、予定と違うのは、疲れです。
働くと疲れてします。週末になると動けない。
こんなはずではありませんでした。
仕事を、減らしてもらおうかとも考えました。
入院中も、退院後も通院のたびに、お休みさせてもらい、復帰してからも暖かく迎えてくれた職場です。
働いて恩返しをしなくては。
仕事を続けるためには、日常生活を疲れずに送るための体力づくりから始めなければなりません。
まずは、そこからです!
意を決して、トレーナーの方にお便りをしました。すぐに返事を頂き、カウンセリングを受けに伺いました。
日常生活を疲れずに送るためのトレーニングが始まりました。
初回の運動指導の翌日には、もう走れそうな気になっていました。
はやる気持ちを抑え、通勤電車を途中下車して、3kmほど歩きました。
走りたくて走りたくて、1週間後にはついに、走ってしまいました。
腕や脚や足の裏や、腹筋も背筋もバラバラな感じでした。
呼吸も苦しくて、以前に感じていた気持ちのいい走りには、ほど遠い感覚でした。
それでも、走れたことは、すごく嬉しかったのと、ゆるみきった姿勢を意識することで、視界が広がり、前方に建つ東京タワーがテッペンまで見えることが清々しかったです。
トレーニングを始めてから、3ヶ月ほどで、身体の変化が現れる、それを期待していました。
待ちに待った3ヶ月目の4月30日、身体には劇的な変化は感じられませんでした。
ショボン・・・
5月の連休は、泳ごうと決めていました。
気になっていたのはパウチのふやけでした。
それから、水着を着た時のお腹あたりの見た目と、パウチの中に溜まる空気。
食事は、時間を調節することで、排泄されるタイミングを計ることができました。
私の場合は、食べてから7~8時間後がピークです。
プールに入る時間を考慮して食事を摂っておくことで、久しぶりのプールに問題なく返り咲くことができました(⌒-⌒)v
トライアスロン復帰へは、残すところ、あと一種目となりました。
お尻の手術後が気にかかり、まだ、自転車にまたがることができません。
そんな時、静岡のオストメイトの宮崎さんが、沼津のトライアスロン駅伝にリレーでエントリーしてもいいと言ってくださいました!
私がスイム、宮崎さんがバイク、トレーナーの野島さんがランです!
私のオストメイトになってからのアスリートとしての人生が、最強のふたりの出現によって、弾み始めました!
7. 走る有袋類
私は、50代になったら、アドベンチャーレースに出ようと決めていました。
アドベンチャーレースというのは、山岳の複合競技です。
山岳マラソン、マウンテンバイク、カヤック、岩登り下り、レースによっては乗馬やパラグライダーなどもあります。
1日で終わるものもあれば、1週間昼夜を通して順位を競うものもあります。
なぜ、50代なのかというと、私が数年前のお正月に“アドベンチャーレース”の夢を見た時、兼sくした情報の中に“睡眠不足や疲労の極限状態にある時、人生の場数を踏んだ50歳代は豊富な人生経験から乗り越えられる”と読んだからです。
当時、私はまだ40代になったばかり、50歳になることを楽しみにしていました。
直腸癌がわかり、オストメイトになったのは、50歳の誕生日2ヶ月前でした。
オストメイトでアスリートの情報は、日本ではごく少なく、前例もないかもしれませんが、それなら私が発信しよう!
手術の麻酔から目が覚めた瞬間に、“こうなること”がわかっていた気がしたのは、自分がオストメイトとして情報発信することを予測していたのかもしれません。
私もまだまだ、オストメイトとして発展途上にあります。
やれそうに思って、やってみたら、くたびれてしまったり、今一歩の勇気が出なくて踏み出せないことも多々あります。
それでも、振り返ってみれば、私は積極的に生きようとしていました。
病院を探してたり、『コレがいい、コレは良くない』と言われたら、大好きだったバナナやチーズを諦めて食生活を変えてみたり。
オストメイトとしての生活は、手術前に想像していたほど悪くないです。
そして、この事件に遭遇したことで、失ったものは“肛門”だけ、けれど得たものが山のようにあります。
新しい出会いもたくさんありました。
これからも、きっと、楽しいことが、たくさん起こる気がします。
有袋類と言ったらコアラに怒られるかもしれませんが、お腹にポケットを付けた新しい種です。
オストメイトは、内部障害と言ってパラリンピックには出られないそうです。
それでも、私は走ります。
戦後間もない頃、相模原の米軍キャンプから、大分の別府にある子どもの施設まで、2週間で歩き通したある子ども好きな兵士の実話があります。
その兵士は、慰問に訪れた別府の自動福祉施設の子どもたちに、『クリスマスには何が欲しい?』と尋ね、子どもたちから雨漏りのしない建物が欲しいと言われ、新聞に記事を載せました。
私に、賭けてください。座間から別府までの1320kmを、2週間で歩き通すことが出来なければ、全額をお返しします。その兵士は、子どもたちとの約束を果たしました。
その兵士の意向を受け継いで児童虐待防止チャリティーランとしてスマイルランが開催されていました。
私には全行程を2週間で歩き通すとはとうていできません。
でも、この話しを聞いて、身体が勝手に動き出しました。
今はまだ、東海道の途中です。先月、宇津ノ谷峠を越えて藤枝まで進みました。
一回で移動できる距離は30km程度です。
途中、脇道にそれて、三保の松原や久能山や日本平に立ち寄ったり、地元の美味しいものを頂いたりしながら、ボチボチ進んでいます。
旅の途中で、オストメイトになって、初めてのスーパー銭湯デビューも果たせました!
不透明なパウチなら、鏡で見ても、絆創膏が貼り付いているくらいにしか見えません。(※ワタシ的には)湯上りやプール上がりに、湿り気を取る作業は少しだけ手間ですが、見た目には、自分でも驚くほどのことはないと思っています。
この先は、熊野古道や、四国のお返事さんもしながら、アーン少佐の足跡を辿って、最終的には別府まで行きたいと思っています。
この記事を読んだ方が、どこかで私を見かけたら、声をかけてくださったらうれしいな~
応援、さし入れ、大歓迎です☆